宮本武蔵「五輪書」
「五輪書」は宮本武蔵自身が二天一流について書き残したものである。その剣の心は、武士道と結び付けられ、永く封建道徳の支柱になってきた。が、今日でもおどろくほどの新鮮さを持っている。
もともと剣術は敵を倒す実技として発生した。相手を倒すには彼我の関係において精神と技術を最も有効にコントロールしなければならない。「五輪書」は、そのための実利、実用の書なのである。「五輪書」により、私たちは、武蔵の勝負道から合理精神をくみとり、今日に活用することができる。
「五輪書」は序につづき、地の巻、水の巻、火の巻、風の巻、空の巻から成る。
その構成は、次の通り。
地の巻 兵法のあらまし
水の巻 二天一流の太刀筋
火の巻 勝負、いわゆる広義の兵法
風の巻 他流の批判をしつつ二天一流を説く
空の巻 結論
序の巻
「五輪書」を著わすまでの顛末をつづる。自分の一生を端的に表現し、ゆるぎない自信を持って序言を述べている。
わが兵法の道を二天一流と号し、数年に及んで鍛錬してきたことを、初めて書きあらわそうと思い、時に寛永20年10月の上旬、九州肥後にある岩戸山に上り、天を拝し、観音をおがみ、仏前にむかった。われは播磨国生まれの武士、新免武蔵守、藤原の玄信。齢を重ねて60歳。
自分は若いころから兵法、武芸の道にこころざし、13歳のとき初めて勝負した。相手は新当流・有馬喜兵衛という武芸者で、これに打ち勝った。その後、国々に至って諸流派の武芸者と出会い、60歳まで勝負したのであるが、一度も勝利を失わなかった。これは齢13歳から28歳までのことである。
しかし、30歳を越して、その跡を振り返って、未熟さを痛感した。そこで、深い道理を得ようと、朝夕鍛錬をつづけた結果、おのずと兵法の道にかなうことができるようになった。わが50歳のころである。
地の巻
武蔵は、まず、この巻で、二天一流の基本的な考え方を展開している。武士たるものは文武の二つの道をたしなむことが原則、そして、兵法の法則を究めることこそ大切と説く。
◆此一流二刀と名付ける事
二刀を腰につけるのは、武士の道である。この二刀の効用をさとらせるために二刀一流というのである。この二天一流にあっては、長いものでも勝、短いものでも勝つ。どんな武器でも勝ちうるという精神、これが二天一流の道である。
◆兵法の拍子の事
何事についても、拍子(リズム、テンポ)があるものだが、とくに兵法ではリズムが大切であり、これは鍛錬なしには達しえないものである。
拍子がはっきりしているのは舞踊や音楽などである。これは拍子がよく合うことによって、調子よくおこなわれる。
武芸のみちについて、弓を射、鉄砲を打ち、馬に乗ることまでも、拍子・調子がある。いろいろな武芸や技能について、拍子を乱してはならぬ。
二天一流の兵法の道は、朝に夕に、たゆみなく実践することによって自然と心が広くなり、集団的あるいは個人的な兵法として、世に伝えられるのである。
わが兵法を学ぼうとする人にとって、この道を行う原則がある。
第1に、邪心を持たぬこと.
第2に、道は、観念でなく実践によって鍛えること。
第3に、一芸でなく、広く多芸に触れること。
第4に、おのれの職能だけでなく、広く多くの職能の道を知ること。
第5に、合理的に物事の利害と損得を知ること。
第6に、あらゆることについて、直観的判断力を養うこと。
第7に、現象面にあらわれない本質を感知すること。
第8に、わずかな現象も(そのよって来る原因あり・・・)注意をおこたらぬこと。
第9に、役に立たない無駄なことはしないこと。
だいたい、このような原理を心にかけて、兵法の道を鍛錬しなければならない。特に原則をすっきりさせ、広く大局を見ることなくしては、兵法の達人となることはできない。
水の巻
武蔵はこの巻で、精神と肉体の両面から、自己をいかに鍛錬するかについて、詳細に説いている。「心の持ち方」からはじまって体の姿勢、目の付け方、刀の持ち方、構え方、ふり方、足づかい等すべて多年の稽古と実践から生まれただけに、迫力と含蓄に富んでいる。
◆兵法心持の事
兵法の道においては、心の持ち方は平常の際と変わってはならない。平常も、戦闘の際も、少しも変わることなく、精神をひろやかに、まっすぐにし、むやみと緊張せず、またたるむことなく、偏った心をもたず,心を静かにゆるがせて、そのゆるぎが一瞬もゆるぎ止まぬよう、よくよく気をつけることである。
体が静かな時にも心静止せず、体がはげしく動く時にも心は平静にたもつこと(静動一如)。心は十分に充実させ、また、余計なところに気を取られぬようにせよ。
にごりのない、ひろやかな心で、高い立場から物事を考えること。知識をも、精神をも、ひたすらにみがくことが、なによりも大切である。
◆兵法の身なりの事
体のかまえは、顔はうつむかず、あおむかず、まげず、目をきょろきょろさせず、額にしわをよせず、眉の間にしわをよせ、目の玉を動かさぬよう、またたきをしない気持ちで、目をややすぼめるようにする。
おだやかな顔つきで鼻すじはまっすぐに、やや、おとがいを出すつもり、くびはうしろの筋をまっすぐ保ち、うなじに力を入れ、肩から全身には力の入れ方を同じようにする。
双方の肩を下げ、背筋はまっすぐに、尻を出さず、ひざから足先までに力を入れ、腰がかがまぬように腹をはる。
◆兵法の目付と云事
戦闘の際の目くばりは、大きく広くくばるのである。
観、すなわち物ごとの本質を深く見きわめることを第1とし,見、すなわち表面のあれこれの動きをみることは二の次とせよ。
目の玉を動かさぬままにして、両脇を見ることが大切である。
「遠き所を近く、近き所を遠く」という教えもある。
◆太刀の持やうの事
太刀のもち方は、親指と人差し指をやや浮かすような心もちとし、中指はしめず、ゆるめず、薬指と小指をしめるようにして持つのである。手のなかにゆるみがあるのはよくない。
太刀をとる時には、いつも敵を切ることを心において持たねばならない。
敵を切る時にも、手の具合は変わることなく、手がすくむことがないように持つこと。もし敵の太刀を打ったり、受けたり、おさえたりすることがあっても、親指と人差し指の調子をややかえるくらいのつもりで、まず何よりも相手を切るのだという気持ちで太刀をとるのである。
◆足つかひの事
足の運びは、爪先をやや浮かし、きびすをつよく踏む。足の使い方は、場合によって大小遅速の相違はあるが、ふつうに歩むように自然に使うこと。飛ぶような足、浮きあがった足、固く踏みつけるような足の三つはいずれもよくない。
足のつかい方にあって、陰陽ということが大切とされている。これは、片足だけを動かすのではなく、切る時も、退く時も、受ける時も、右左、右左と足を運ぶのである。くれぐれも、片足だけを動かすことのないよう、十分注意するようにせよ。
◆五方の構の事
五つのかまえとは、上段、中段、下段、右のわき、左のわきをいう。
このように五つにわけるけれども、すべて人を切るためのものである。かまえには五つよりほかにはないが、どのかまえにせよかまえそのものにはとらわれず、なにより敵を切ること(目的)を考えよ。
武芸の極意にいう、かまえの神髄は中段にあると。中段こそかまえの中心である。
◆太刀の道と云事
太刀をやたらに早く振ろうとするから、かえって太刀の道を誤り、自由にふれなくなるのである。太刀をふるには、ふりよいように、静かにふる気持ちが必要である。どんなときにも大きくひじを伸ばし,強くふることが太刀を動かす道である。
むりやりに早く振ろうとすれば、かえって刀の機能を殺してしまい、切ると云う目的を果たせない。
◆五ツのおもての次第、第一の事
5つのおもてについて、その第一。第一のかまえは、中段をとり、太刀の尖端を敵の顔につけ、敵に相対する。敵が打ちかけてくる時、太刀を右にはずしておさえる。また、敵が打ちかけた時は、切っ先がえしで打ち、打ちおろした太刀をそのままにひっさげ、敵がさらに打ってくれば下から敵の手をたたく。これが第一のおもてである。
第二の事、第三の事第4の事、第五の事・・・省略。
◆有構無構のおしえの事
構えがあって、構えがないという心得について。そもそも、太刀を一定の形にかまえるということは、あるべきことではない。しかしながら、五の方向(上、中、下、右左のわき)に向けることを構えといえばそのようにいうこともできる。これを構えがあって、ないというのである。
太刀を持つには、敵との関係により、その場所のより、状況に応じ、どの持ち方をしようとも、すべて敵を切りやすいように持つことである。
ともかく、太刀をとっては、どのようにしても敵を切ることが眼目である。
◆敵を打つに一拍子の打の事
敵を打つのに、一拍子の打ちといって、敵と我とが打ちあえるほどの位置をしめて、敵がまだ判断の定まっていないところを見抜き、自分の身を動かさず、心もそのままに、すばやく一気に打つ拍子がある。
敵が太刀を、引こう、はずそう、打とうなどと思う心が決まらぬうちに打つ拍子が、一拍子である。この拍子をよく習得し、きわめて早い間で、すばやく打つことを鍛錬せよ。
◆二のこしの拍子の事
「二の腰の拍子」というには、自分が打ち出そうとしたせつな、敵の方がより早く退いたようなときは、まず打つとみせ、敵が一時緊張したあとたるみが出たところを、つづいてすかさず打つのである。これが、二の腰の打ちである。
◆無念無想の打と云事
敵も打ちかかろうとし、我も打とうと思う時に、体も打つ態勢をとり、精神も打つことに集中し、手はきわめて自然に、加速をつけて強く打つのである。これを無念無想の打ちといって、最も大切な打ちであり、しばしば出会うものである。よくよく習得して、鍛錬すべきことである。
◆流水の打ちと云事
「流水の打ち」とは、敵と我とが五分五分になってせり合うとき、敵が早く引こう、はずそう、はねのけようとするのを、こちらは身も心も大きく持ち、太刀はこれに従うように、できるだけゆっくりと、よどみのあるように、大きく力強く打つのである。
◆縁のあたりと云事
こちらが打ち出すとき、敵は打ちとろう、はねのけようとするのを、こちらは一打ちで、頭をも、手をも、足をも打つ。
太刀筋一つで、一気に、どこをも打つと云うのが「縁のあたり」である。
◆石火のあたりと云事
「石火のあたり」(きわめてすみやかな動作をいう)とは、敵の太刀とわが太刀とが、くっつくほどの状態で、わが太刀を少しもあげることなく、強引に打つのである。これには足も強く、体も強く、手も強く、その3か所の力により、すばやく打たねばならない。
◆紅葉の打と云事
「紅葉の打ち」とは、敵の太刀を打ち落としておいて、太刀をとりなおすことである。
◆太刀にかはる身と云事
「太刀にかわる身」ということは、逆にいえば「身にかわる太刀」ともなろう。打ちかかってくる敵の状態に応じて、まずわが身をうちこむ態勢となし太刀はそれより遅れて敵を打ちもむのである。
◆打とあたると云事
「打つということ」と「あたる」ということは全く違う。「打つ」というのは、どのような打ち方にせよ、心にきめて、確実に打つことをいう。「あたる」というのは、ただぶつかったというほどのものであり、たとえ非常に強く当たって、敵がたちまち死ぬほどであっても、あたりはあたりである。打つというのは、心に決めて打つことである。
◆しうこうの身と云事
秋猴の身とは、手を出さぬという心がまえである。敵に対して、わが体をよせていくとき、少しも手を出す心をもたず、敵が打つより早く、体をよせつけていく呼吸である。
◆しつかうの身と云事
これは、うるし、にかわでつけたように敵の体にぴったりとくっつき、離れぬ呼吸をいう。
◆たけくらべと云事
たけくらべというのは、どんな場合でも敵に体を寄せ付ける際、わが体がちぢむことがないように、足をも、腰をも、くびをも伸し、敵の顔と自分の顔をならべ、背たけをくらべれば、自分の方が勝つと思うほどに、体を十分伸ばし、つよく寄りつくことが大切である。
◆ねばりをかくると云事
これは敵も打ちかけ、こちらも打ちかけるときに、こちらの太刀を敵が受けた場合、こちらの太刀を敵の太刀にくっつけるような心持で、体を入れていくことをいう。
◆身のあたりと云事
体あたりとは、敵のまぎわにとびこみ、体で敵にぶつかることである。自分の顔をややそむけ、自分の左の肩を出し、敵の胸にぶつかる。
◆三ツのうけの事
三つの受けがある。
その第一。敵のきわに入っていく時、敵が打ち出す太刀を受けるのに、自分の太刀で敵の目を突くようにし、敵の太刀を自分の右側にはずして受ける。
その第二.突き受けといって、敵が打ちかけてくる太刀を、わが方は敵の右の目を突くようにし、敵のくびをはさむようなつもりで突きかけて受けるのである。
その第三。敵が打ってくる時、わが方が短い太刀をもって入る時には、受けることは気にせず、わが左手で、敵の顔を突くようにして入り込むのである。
◆おもてをさすと云事
顔をさすというのは、敵味方の太刀が五分五分になった時に、たえず敵の顔を自分の刀の尖で突く心でいることが肝心だと云うのである。
◆一ツの打と云事
この「一つの打」という呼吸によって確実に勝ちをえる。ことができるしかし、これは、武芸を十分にまなばなければ、その道を理解することはできない。
※武蔵は「今日は昨日の我に勝ち、明日は下手に勝ち、後は上手に勝つと思い・・・」と一歩一歩のたゆまぬ修練を説く。そして、たとえ、どのような敵に勝つことがあろうとも、もし、原則の習熟によったものでないならば、本当の勝利ということはできないとも。
火の巻
勝負、合戦のさまざまな駆引きを説いたこの巻は、「水の巻」の応用編といえよう。その内容はきわめて心理学的、力学的で興味ふかい。
◆三ツの先と云事
先手をとるのに3つの場合がある。
第一は、はわが方から敵にかかっていく場合の先手のとり方。これを「懸の先」しかける先手という。静かな状態を保ったまま、にわかに、素早く。心をはりつめ、一気に鋭く攻めて圧倒するなど。
第二に、敵がかかってきた場合の先手のとり方。これを「待の先」待ってとる先手という。敵が先にかかろうとも、やり方によっては、こちらが逆に先手をとることがある。
第三に、わが方からもかかり、敵からもかかってくる場合の先手のとり方。これを「対々の先」という。同時にぶつかっても、こちらが先手をとることができる。
◆枕をおさゆると云事
「枕をおさえる」というのは、「頭を上げさせぬ」という意味である。
武芸にあって、敵が打とうとするのを止め、突こうとするのをおさえ、組もうとするのをもぎはなしなどすることを、枕をおさえるという。
敵の気配を判断し、敵が打とうとするならば、その「う」という字のところでくいとめ、その先をさせないという意味である。出鼻をくじく。肝心なところをおさえる。
◆三ツの声と云事
三つの声とは、声をかけるのに、初、中、後と、時により三つにわけることをいう。
1対1の戦闘においても、敵を動かそうとするには、打つと見せる矢先に、えいと声をかけ、声の後から太刀を打出すのである。また、敵を打ち倒して後に声をかけるのは勝ちを知らせる声である。この二つを「先後の声」という。太刀を動かすと同時に大きく声をかける事はない。また、戦闘の最中にかけるのは、拍子に乗るためのもので、低くかけるのである。
◆いわをのみと云事
「巌の身」というのは、兵法の道を心得ることにより、たちまちにして巌のように強固となり、どのような打撃にもたえ、動かされぬようになることである。
兵法35カ条によると、「岩尾の身と云は、動く事なくして、つよく大なる心なり。身におのずから、万里を得て、つきせぬ処なれば、生ある者は、皆よく心有る也。無心の草木迄も根ざしがたし。ふる雨、吹く風もおなじこころなれば、此身能々吟味あるべし」
風の巻
この巻は他流を批判する事によって二天一流の考え方をより明確にしている。
◆他流に大きなる太刀を持事
他流において大きな太刀を好むものがあるが、わが一流の兵法からすれば、このような流儀を弱者の兵法と判断するものである。太刀が長ければ有利になるとは、兵法を知らぬものの言い草に過ぎない。
◆他流においてつよみの太刀と云事
そもそも太刀に強い太刀、弱い太刀などということは、あるべきものではない。強く強くと思ってふる太刀は粗暴な使い方となる。粗暴な太刀づかいによっては勝ちを得ることは困難である。また、太刀の強さばかりを心がけ、人を切るにあたって、無理に強く切ろうとすればかえって切れなくなるものである。試し切りの場合にも、強く切ろうとすれば結果はよくない。
◆他流に短き太刀を用る事
短い太刀だけを使って勝とうとするのは真実の道ではない。短い太刀をことさら愛用するものは、敵がふるう太刀の間をぬって、飛び込もう、つけいろうとねらうのであり、このような偏った心がけはよろしくない。
◆他流に太刀かず多き事
他流において数多くの太刀の使い方を人に伝えているのは、武芸を売りものにし、初心者を「いろいろな太刀の使い方を知っているものだ」と感心させるためであろう。これは兵法にあって最も厭うべき精神である。
わが兵法にあっては心も姿勢もまっすぐにして、敵の側をねじらせ、ゆがませて、相手の心が曲がったところを打って勝ちを得ることをおもんじているのだ。
◆他流に太刀の構を用る事
太刀のかまえ方を第一に重視するのは、まちがった考え方である。そもそも「構え」ということは、敵がいない場合のことである。
物事の「構え」というのは、動かされぬ場合に用いることばである。城をかまえるとか、陣をかまえるなどというのも、人にしかけられても、じっと動かされぬような状態をいいあらわしている。ところが、兵法勝負の道では、何事も先手先手をと心がけるものである。これに反して構えというのはしかけられるのを待っている状態だ。
人に先手をうたれた時と、こちらからしかけた時とでは、たたかいの有利さは倍ほどもちがうように思われるものである。
◆他流に目付と云事
他流では目付と称して、流儀々々により或いは敵の太刀に目をつけるもの、手に目をつけるもの、または顔、足などに目をつけるものがある。このように、取り立ててどこかに目をつけようとすれば、それに惑わされて、兵法のさまたげとなるものである。
たとえば、蹴鞠をする人は,鞠に目をつけているわけでないのに、さまざまな蹴鞠の技法において、たくみに蹴ることができる。
兵法の目のつけどころと云えば、それは相手の心に目をつけるのだといえよう。
細かな部分々々に目をつけることによって、大局を見落とし、心に迷いを生じて確実な勝利を取り逃がしてしまうものである。
◆他流に足つかひ有事
他流では足のふみ方に、浮足、飛足、はね足、ふみつける足、からす足などといって、いろいろと、足を素早くつかう法がある。わが兵法からみるならば、これらはすべて不十分なものと思われる。
わが兵法においては、たたかいのときといえども、足づかいは平常の場合と変わることは。ない。ふだん道を歩むように、敵の拍子に応じ、急ぐ時、静かな時と、体の状況に合わせて、足らず、余らず、足が乱れることのないようにすべきである。
◆他の兵法にはやきを用る事
兵法にあって、見た目の速度を云々するのは本当の道ではない。拍子に合っていれば、他人にはごく普通に見えるのであって、ものごとの拍子が合わないから、早く見えたり遅く見えたりするのである。
何の道にせよ、上達した場合には決して見た目に早いとはうつらぬものである。
すべて早くしようとすれば「急げば転ぶ」というように、間にはずれて。しまうものである。さりとてもちろん、おそいこともよくない。
総て上手な人のなすことは、いかにも悠々としていて、しかも間をはずさぬものである。何事につけても、よく熟達した人のすることは、いそがしそうに見えぬものである。
空の巻
合理に徹し実利を追求し、到達し得た“空”の境地。まよひの雲の晴れたるところこそ、実の空としるべき也。二刀一流の兵法の精神を、ここに空の巻として書きあらわした。空とは物ごとがないということ、人間が知ることのできぬことをいうものである。
武士としては、兵法の道を適確に会得し、いろいろな武芸を身につけ、武士としてのつとめについて心得ぬところがなく、心が迷わず、日々刻々に修養をつみ、知恵と気力をみがき、判断力と注意力を養い、一切の迷いをぬぐい去った状態こそ、真の空であると云う事ができる。
空を道、道を空。すなわち一切の迷いを去った心境こそが兵法の神髄であること。同時に人間としての最大限の修練を積むことにより、はじめて人智の及ぶべからざる空の境地を知ることができること、これをわきまえよ。
空という心には善のみがあって悪はない。兵法の知恵、兵法の道理、兵法の精神、こうしたものがすべて備わることにより、はじめて一切の雑念を去った空の心に到達することができるのである。
[ 独行道 ]
1、世世の道そむく事なし
1、身に楽みをたくまず
1、よろずに依怙のこころなし
1、一生の間欲心思はず
1、我が事におひて後悔をせず
1、善悪に他をねたむ心なし
1、いずれの道にも別れをかなしまず
1、自他共にうらみかこつ心なし
1、恋慕の道思ひよる心なし
1、物事にすき好む事なし
1、私宅におひて望む心なし
1、身ひとつに美食を好まず
1、末々什物となる古き道具所持せず
1、吾身にいたり物忌みする事なし
1、兵具は格別余の道具たしなまず
1、道におひては死をいとはず思ふ
1、老身に財宝所持もちゆる心なし
1、仏神は尊し仏神をたのまず
1、常に兵法の道をはなれず
正保2年5月12日
新免 武蔵