沢庵「不動智神妙録」
沢庵が柳生但馬守に向かって、剣禅一如を説いたもので、日本兵法の確立に非常に大きな影響を与えたものとして、昔から評価されてきたものである。
柳生は兵法家として多くの敵に対するとき、あるいは人を使う者として多くの部下に対するとき、どうすべきか、その能力を発揮するためにはどうあるべきか。
ことに、千手観音の例をあげて、千の手が自由自在に使え、その各々が十二分に機能を果たすためには、一つの手に心をとらわれることなく、千の手に残りくまなく、心が通い、千の手を隙なく支配するところまで行かなくてはならないと説くあたり、まことに適切である。
千の手に残りくまなく心が通い、千の手を心が支配するということは、個としての自分が、他者としての人間を知り抜き、他者としての人間を自分が飲み込み、支配するということである。
◆不動明王の教え
「諸仏不動智」という言葉がある。不動とは動かないということ、智は知恵の智である。動かないといっても、石や木のように、全く動かぬというものではありません。心は四方八方、右左と自由に動きながら、ひとつの物、ひとつの事には決してとらわれないのが不動智なのです。
◆無心無念になりきるまで
初心から修業を始めて、不動智を自分のものにすると、もう一度初心に戻るということがあります。
これを兵法に例えると、
初めて刀をもつものは、どうやって刀を構えてよいかわからないから、何事も心にかからない。相手が打ち込んでくると。思わず立ち向かおうとするだけです。
それが、刀を構えるにはどんな点に気をつければよいか、いろいろな事を教えられるに従って、あれやこれや気にかかるようになり、かえって身のこなしも不自由になるものです。
しかし、長い年月の間、稽古を積んでゆくと、どういうふうに身を構えようとか、刀はどうなどとは少しもおもわなくなって、ついには、自然に、何もなかった初心の時のように、無心の状態でいられるようになるのです。
◆理を支える技、技を生かす理
理の修業、事(わざ)の修業ということがある。
理とは、行き着くところに行けば、何にもとらわれないということで、無心になる修業をいう。
ところがどれほどに理の修業を積んでも、事の修業をしなければ、手も身体も思うように働かすことができない。
事の修業とは、兵法でいえば5つの身の構えなどさまざまに習う、技術の修業です。
事と理、それは車の両輪のように、二つそろっていなければ役に立たないものです。
◆間髪をいれない心の状態
間、髪を入れずということがある。これを兵法に例えると、
これは、物を二つ重ね合わせた間に、髪一筋も入る隙がないということです。
たとえば、手をポンと叩くその瞬間に、ハッシと声が出ます。打つ手と出る声の間には、髪の毛一本入る暇もありません。
人が打ち込んできた太刀に心が止まれば、そこに隙ができる。その隙にこちらからの働きが、お留守になる。向こうが打ってきた太刀と、それに応えるわが方の働きとの間に、髪の毛一本入らぬようなら、人の打つ太刀は自分の太刀となるのが当然です。
◆心を止めないことが肝要
石火の機、ということがある。これも間髪をいれずと同じです。
石をハタと打つと、その瞬間光が出る。石を打つのと火が出るとの間に隙間というものはありません。
つまり、心を止める間のないことを表しているのであって、これを素早いことを意味しているのだなどと理解するのはいけません。心を物に止めないということが大切なのです。素早いというのも、結局は心を止めないから早いので、そこが肝心なところです。
西行の歌集に「世をいとふ人とし聞けはかりの宿に、心止むなと思うはかりぞ」(世の中を厭う人というが、所詮この世はかりの宿、厭うほどに心を止めてはならぬのだ)という歌があります。
◆心をどこに置くか
心の置所・・・心をどこに置いたらよいか。
敵の動きに心を置けば、敵の動きに心を捉えられてしまいます。敵の太刀に置けば、敵の太刀に捉われる。敵を切ろうということに心を置けば、切ろうとすることに心を奪われ、自分の刀に心を置けば、自分の太刀に心を取られ・・・なんとも、心の置き場所は見つからぬものです。
ある人が、いう
「自分の心をどこかに置くと、その心の在るところに心を止めてしまい、敵に負ける。そこで自分の心を臍の下に押し込めて、よそにはやらぬがよい。そして敵の動きに対応して自在に動かすがよい。」
それも、もっともな言い分です。しかし、これも、仏法の悟りの境地から見ますと、臍の下に押し込んでよそにやらぬというのは低いもので、最高とは言えません。修業、稽古の際のものです。
「それでは、どこに置いたらよいのでしょう。」
「どこにも置かぬことです。そうすれば、心は身体いっぱいに行きわたり、のび広がります。手を使うときには手の、足が肝要の時は足の、眼が大切な時は眼の役に立ち、身体中どこでも必要に応じて、どこでも自由な働きをすることができるのです。
心をどこに置こうかなどと、取り立てて考えたりしなければ、心は自然に身体全体にのびひろがって、すべてに行きわたるのです。
肝心なのは、心を一つ所に止めないようにすることで、これは修業によるところです。心をどこにも止めないこと、それが眼目であり、肝要なのです。
◆思うまいとも思わない修業
無心ということが、本当に自分のものに、なれば心はひとつのことや物に止まることなく、だから何事にも、どんな状況にも対応して用を足すことができ、まるでいつまでも満々とたたえた水のようになるのです。
一つ所に止まってしまった心は、自由自在に働かせることができません。
心の中に何か思うことがあると、人の話を聞いていながら、少しも理解できません。思っていることに心が行ってしまっているからです。
◆水に浮いた、ひょうたんのように
水の上のひょうたんを打つ。手で押せば即ち転ず。
ひょうたんを水に投げ、浮いているものを手で押すと、ひょうたんは、ひょっと脇に逃げ、また押せばまた逃げる。どうしてもひとつのところに止まっていないものです。
高い所に到達した人の心は、少しの間も止まることがありません。まるで水の上のひょうたんを押すように。
◆心を捨て切ること
兵法で言うと
刀を打つ手に心を止めず、打つ手をすっかり忘れ去って打ち、人を切るのです。相手に心を働かせるなということです。人も空、自分も空、そして敵を打つ手も、打つ太刀も一切空と思うのです。
このように、総てを忘れ去って、これを行うのが名人上手といわれる人なのです。舞を舞う時、扇をとる手をうまく動かそう、足をきれいに踏もうなど、良い舞を舞おうという気持ちを忘れ切らなければ、決して達人といえません。手や足にいちいち、心が止まるようでは、何をやってもうまくいかないはずです。何事によらず、心を捨てきることができずにする技は、皆、だめなのです。
◆因縁と果
春、種子を土に蒔くことを因というのです。植えたからといって、種子は雨、露などの手助けがなければ、芽生え、成長できません。この、雨や露の助けを縁というのです。春蒔いた種子である因が、雨露の助けである縁によって成長し、秋に実ることを果というのです。
「植えてこそ、なるをも見つれ幹のつまに、かたえさしほふ生きの浦梨」(植えておけばこそ、生きの浦の、枝のよく繁った梨の木に実がなるのを見ることができるのであるよ。)
池田 諭訳 「沢庵 不動智神妙録」より抜粋