日新庵
剣道&居合道

剣道

道と術

剣道を学ぶ上で、その意義を会得すること大切であるが、小澤愛次郎著「剣道指南」によると
剣道は、戦闘する際刀剣を以って、敵を制し自己を守る技術を練る為に起こったものであるが、
其れと同時に心身を鍛錬し、精神を修養し、
併せて忠君愛国の思想及び信義、礼節、勇気、沈着、忍耐、進取等の諸徳を涵養するものである。
故に技術のみから言えば畢竟手の術、体の技というに過ぎないけれども、この技術は根深き道義を根底としたもので、
この道なくして術は生まれないのである。
総て如何なる技術でも、精神の籠らざる技術には生命がないのである・・・・・・後略・・・・・と 述べている。

修業の目的

剣道修業の目的は、第1に身体の鍛錬、第2に精神の訓練、第3に技術の熟達であり、
この三つのものは相寄り相扶けて修業の目的を達するものである、といわれている。
身体の鍛錬により、機敏なる動作と神経系統の鍛錬をおこない、
尚武、廉恥、礼節は勿論意志の鍛錬、忍耐、沈着、果断の気風を養って精神を啓発し、
併せて術の上達ををめざして訓練することよりその効果をあげることができる。
    

剣道修練の基礎的理合

◆姿勢

剣道の正しいとされる姿勢は、「自然体」すなわち、平生のままの自然の姿勢であるといわれている。
中段の構えにおける要点は、両膝は軽く伸ばして直立し、腰を引き入れ、、体を上に伸ばし、胸を軽く張り、
下腹部に力をいれ、両肩を平均に垂れ、顎を首に引きつける。両足先は平行して前方に向く。

◆足の踏み方

昔から「足の裏と床板との間に紙一枚の隙間のあるように足を踏め」との教えがある。
足の運びが軽く動作を軽妙にするための教えともいえる。
右足裏はだいたい一様に床板につくが、左足の踵は、少し浮かせ気味である。
また、足を高く上げて踏みつけるは、悪し。

◆竹刀の握り方

宮本武蔵は、「太刀のもち方は、親指と人差し指をやや浮かすような心もちとし、中指はしめず、ゆるめず、
薬指と小指をしめるようにして持つのである。手の中にゆるみがあるのはよくない。」と述べている。
手の内の要諦は「茶巾絞りの如くせよ」という昔からの教えもある。

◆目付け

剣道修業上、目付けが大切である。「一眼二足三胆四力」という教えもある。
目付けについての教えでよく知られるのが,[遠山の目付]である。視線は相手の顔面につけるが、
一点を凝視するのではなく遠くの山を見るように相手の全体を見るようにする。
ある一部分のみを凝視すれば、心がその部分に捉われて他は見えず、然も相手の心の働きを
察知できない。

◆発声

発声は剣道には極めて大切であるが、既に上達すれば、これ等の発生がなくとも、無声でいて発声に
必要な条件が全部備わるところから、無声でよい。人によっては無声の方が気力を漏らさない意味から
かえって有効であるとの説もある。「有声より無声に入る」といって、精神と技術の進歩に伴い、有声の
気合よりも、無声の気合に重きをおくようになるものであるとの、昔からの教えもある。

◆間合

間合とは、相手と対峙した時の相互の立会の間隔、距離をいうが、ただ単に相互の距離、間隔をいう
のみならず、その間に心のはたらき、攻防の理合をも含んでいる。「相手からは遠く、われよりは近く
戦うべし」との教えもある。気合が、充実して相手を攻めている時は、敵に遠く己に近い間合となるのである。

◆先

先んずれば人を制すなどと言われている通り、他人より先んじて意外な功を奏した例は多く見られるが、
剣道においても、古来より「先」が重視されている。
宮本武蔵の「五輪の書」によれば、3つの先について述べている。
 懸の先・・・我方より敵へかかる。
 待の先・・・敵より我方にかかる。
 体々の先・・・我もかかり敵もかかる。

◆打突すべき機会

彼我互いに立ち合って、直ちに打突して勝ちを得ようとしても、簡単に勝つことは難しい。
相手を攻め、或いは技を持って相手の心を乱し、隙を生ぜしめて、その隙に乗じて適切な技をほどこす
ことによって勝ちを得られる。
打突すべき好機は
@出頭・・・相手が攻めに出たところ、技を出すところ、出そうとする起こりをすかさず打突する。
A引くところ・・・攻められ、備えなしに後退するところ。
B居付いたところ・・・攻められ、或いはいかに打突しようかと考えたりして、心身のはたらきが停滞したところ。
C技の尽きたところ・・・打突は成功するまで継続すべきであるが、そんなに続くものでもない。その切れ目。
D受け止めたところ・・・打突を受け止めたとき、直ちに技の変化に出るか、攻めに出ない限り、居ついてしまう。
E心の乱れたところ・・・どう打突しよう、守ろうなど無心でない状態。
F実を失って虚となったところ・・・充実した気力がぬけて、心身が空虚となったところ。
上記のうち、出頭、引くところ、居ついたところの3つは「3つの許さぬところ」といわれ重要な打突の好機である。

◆残心

相手を確かに打突したと意識しても、そこで気を弛めてはならない。打突後も油断しない気構え、身構えが大切。

◆気合

気合とは、あらゆる妄念を去り、旺盛なる気勢を全身に充満させることを言う。
剣道には気合は極めて重要であり、試合においても、気合の有無が、勝敗に大きく影響する。
気合と発声は同じではないが、腹のそこから大きく出す発声は、気合を育成するのに効果がある。
熟達の者は、発声がなくとも気合の充実があるといわれる。

◆四戒

剣道をするに驚懼疑惑を起こすことは、最も悪いこととして古来戒めている。これを四戒という。
勝負では平常心を保つことが大切で、心がこの4つの状態に陥ってはならない。
予期しない相手の攻撃などに驚く、相手の攻めや雰囲気にのまれて恐れる、自分の力や攻めが通じない
ではないかと疑う、自分の攻め方が決まらなかったり、相手の動きが読みきれずに迷う。平静の心が大切。

◆平常心

人間は平穏無事に居れば平静に保たれるが、何か変事が起こった場合には、大体の人は動揺する。
剣道においても、何事かによって心が動揺すると、日頃の練習で会得した技を発揮することができない。
如何なる相手に対しても平常心を失わなければ己の技は自在にほどこされ、堂々と対峙できる。
平素の修養、鍛錬を積まねばならない。

◆明鏡止水

心の持ち方を教えた言葉。無心の境地を説く。
心が、曇りのない鏡や、おだやかで静止した水面のような落ち着いた状態であれば、相手の隙がこちらの
心に映るようにわかるものある。
この技で勝とうとか、ああ来たらこう応じようなどと考えると結果は思わしくない。

◆心気力一致

心とは、相手の動静を窺い、技の総てを司る心の働き、気とは気合、気勢、気力をいい、力とは、体の運用、
技の動作等を言う。この3つが一致することによって技は思いのままに出され、正しい剣道ができる。
これを気剣体一致、体用一致などともいう。心の働き、竹刀の動き、体の運びの3要素が一致してはじめて
有効打突になる。

◆懸待一致

相手と対峙した時には、終始気をゆるめることなく、常に旺盛なる気魄をもって攻勢に出るよう心掛けなば
ならない。されど相手を早く打突することのみに専念すれば隙を作り、かえって相手に乗ぜられる。
故に懸かるところに待つ心、待つところに懸かる心がなければならない。攻撃と防御は表裏一体をなす。

◆離勝

教えに「勝を求めずして勝を離勝という」の言葉がある。「勝とう勝とうが負けのもと」も同様の教えである。
余りに勝つ気が先走っては、心がそこに捉われ平静を失って相手から乗ぜられ敗を招く。
故に初めから勝とうという気を起こさなければ心は常に平静で隙は生じない。
古歌にいう「うつるとは月も思はずうつすとは水も思はず猿沢の池」

<参考文献:小澤愛次郎著「剣道指南」・佐藤忠三著「剣道の学び方」・剣道日本編集部「高段者への道」>

                     


居合道

居合の意義および基本

居合道について、紙本栄一範士の「夢想神伝流居合」の記述によると、

居合の「居」とは、行住坐臥、一心が居るべきところに寂然不動として居るをいう。「合」は、 自在無碍の
  感応より生じる心技体の臨機応変の働きをいう。居すなわち静、合すなわち動であり、その静中に動を得て、
  動中に静を得る、静動一如の境地に居合の妙諦がある。
  居合は、「鞘の内」とも呼ばれる。居合の勝ちは鞘のうちにある。すなわち、抜かぬ前に我が心法の利をもって
  敵の心を制圧し、技の起こりを封じ、体の働きを奪いとる。それでもなお敵、害意を失わず切り懸けくるや、
  鞘放れの一刀、剣光一閃のうちにこれをたおすのが、居合の大精神である。

居合の根源は心法にある。心法に始まり、抜刀に中し、心法に終わるのが居合である。その至妙なる動静一如の
  境位に至るには、畢竟、心法によるほかないからである。居合の修業がすなわち人間形成に直結するといわれる
  ゆえんも、実はここにある。
  心法といえば、沢庵禅師の「不動智」に述べられている所見がある。不動智とは動かないことであるが「動かないとは」
  石とか木とかのごとくになるのではなく、一言でいえば、物に心をとどめないことである。
  物に心がとどまれば、物に心が動かされる。そこに迷いが生じる。敵と相対したとき、勝とうと一筋に思うこと、
  稽古で身につけた技を出そうと一筋に思うこと、みな物に心をとどめることにほかならない。
  不動の境地に至る道は遠い。それゆえ修行者は、たとえ一度の抜刀においても、心の置き所、心の姿勢といった
  ことをおろそかにすることを許されない。
 

剣居は心法において、また、技体の上で一如のものである。ゆえに剣道を学ぶ者は、居合の技法、
  体用に益することを学び得るし、居合を学ぶ者は、剣道の技法、体用に益することを学び得る。
  就中、居合を学べば、剣道の手の内、刃筋正しい刀の操法、残心を体得できる。剣道を学べば、居合の仮想的に
  対する間合、打突の機会を体得できる。

居合の修業が剣道に利することの一つは、手の内である。手の内の練りが確かでなければ、正しい刃並、刃筋が
  生まれない。手の内こそは「切れる居合」の根本とも言える。
  鯉口を切って、抜きつける。抜きつけは序破急といって、初めは静かに、中ほど早く、終わり急にして剣先が鞘放れ
  する心持で抜く。
  抜きつけた瞬間の手の内は、切手を旨とする。切手学びの概ねをいえば、まず、小指を強く締め、薬指、中指へと
  順々に締めること、しかもその締め具合は小指、薬指、中指と段々に移るにしたがい微かずつ軟度がつくこと、さらに、
  すべての指が締まった刹那に締めを解くこと、この三点に心がけて稽古することが大事とされる。
  居合が剣道に利することの二つは、残心である。納刀はあえて序破急を意識することなく、鯉口に峯をそえた瞬間に
  気を新たに臍下にこめ、その気にしたがって自然に納刀するのであるが、この場合忘れてならないのが、残心である。
  残心とは、「折り得ても心ゆるすな山桜さそふ嵐に散りもこそすれ」の古歌が示すように、七重八重にも心を残して
  おくこと。平たく言えば、切ってなお心に油断を生じさせないことである。

居合は、もとより、敵のいないところを切っても居合たり得ない。しかし、修行者は現実の敵を相手とするのではなく、
  仮想せる敵を相手として単独修業するので、年月をかけて修業しても容易に対敵居合、仮想敵の湧出せる居合に
  到達できない。剣道修業することによって、剣道の間合、拍子を対敵居合に活かすことができるのである。
  間合には、彼我の距離をいう間合と、いわゆる「心の間合」とがある。心の間合とは、彼我ともに働いている心意識の
  間に生ずる間合で、剣道でいう虚実、懸待(攻防)の理合、心技体の働き、気合含むものである。 

居合の基本で大切なのは目付である。
  目付との兼ね合いで抜刀の姿勢が定まり、攻め手、守り手が決し、体の運用が生まれ、その運用をなさしめる足の
  踏みようが変化するからである。「一眼二足三膽四力」が武道の重要な修業項目とされているが、居合においても
  それは同じである。

居合の基本的姿勢を居合腰という。居合腰とは、次の動を孕んだ活きた自然の姿勢と解してよい。腹は背のかお、
  背は腹のかお、右側は左側のかお、右側は左側のかおというぐあいに、四方がすべて正面で見る心づもりして、
  すっくと立った姿勢である。この時顔はうつむけず、あおむけず、鼻筋と臍が一直線になるようにし、首筋はまっすぐに、
  えりくびに力をいれ、両肩をさげ、背筋正しく、尻出さず、膝から足先まで力をいれ、腰がかがまない程度に腹を張る。

形というものは、単なる教程に過ぎない。形が何本あっても、敵の万化する変化、動きを想定し尽くすことは出来ない。
  形は有って無きが如し、というのはこのことを示している。
  しかし、居合の修業はこのことを十分に知った上で、日々夜々に形に習熟していくほかないのである。その習熟の中
  から、いつ如何なる時、敵がどう仕掛けて来ても「切れる居合」を体得するほかないのである。
  「気迫」ということを心がけて修業することが肝要である。

<紙本栄一編著「夢想神伝流居合」より抜粋